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岸田賞の傾向と対策
2010年 4月 21日(水曜日) 00:00

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【参考】白水社 第54回岸田國士戯曲賞選評(2010年)
http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review54.php

[各作品のプラス評価]

 
『セクシードライバー』 (上演台本) :江本純子

・タクシー運転手とその車に携帯電話を忘れた女のとめどない会話。交わされる言葉の応酬は面白いし二人の人間性にも面白味はある。(岩松了)

・言語感覚は非常に研ぎ澄まされている(鴻上尚史)

・台詞も軽快で、風俗コントとしてすいすい読み進められる。(坂手洋二)

・台詞は、俗っぽさのつかみが秀逸だった。(永井愛)

・セリフは上手い(野田秀樹)
 

 
『ヘアカットさん』 (上演台本) :神里雄大

・マイク・ジャクソンの条が好きだった。(野田秀樹)

・冒頭に記される俳優のふるまいを指示したト書きが興味深い。意図はごく単純にちがいない。それは、そうしたかったから、ただ単にト書きがそう指示しているのである。作者はことごとく読者を裏切る。そこでは〈アンチテアトル〉もまた過去のものとして裏切られるのだ。戯曲の決まりごとを覆そうと意図しようとすること、演劇という括りそのものを異化し、ふざけた態度を貫こうするのは魅力的なふるまいだ。けれど、それらはすべてあらかじめ〈演劇〉によって〈容認〉されてしまうことを彼らは知っている。(宮沢章夫)
 

 
『わが星』 (上演台本) :柴幸男

・『わが星』(柴幸男)は、ひとつの家庭、ひとりの少女を宇宙の中に放り出し、無用な思い入れなく、人のあわれを描き出している。無常観すら感じさせるその筆致は、A・キアロスタミの映画を観るようで、容易にヒューマニズムなどという言葉に手をのばしてはならぬという警鐘とも感じる。くり返しと少しずつずれてゆくシーンの連らなりも効果的だ。(岩松了)

・柴さんの魅力は、たぶん、演劇の可能性を遊びとケレン味の形で押し広げていくことなのでしょう。(鴻上尚史)

・柴幸男『わが星』は、失礼を承知で言えば、他の候補作との関係では、一種の消去法で一番まともに見えたというのが本当である。それでも作者は自分のスタンスに合わせて新しいことに挑んだ。「上演」を意識した台本であることが、この場合は吉と出た。(坂手洋二)

・『わが星』(柴幸男)は、地球と宇宙に流れた時間と、地上の人間に流れた時間を相対化するという、壮大な遠近法で見せる。それは、ワイルダーの『わが町』の本歌取りとして、充分な詩情を獲得しているこの立体構造は捨てがたく、設計士としての柴さんが勝利を収めた。(永井愛)

・寂寥感とか孤独といった、積み上げられた悲しみではなくて、ただ寂しさの様なものを『わが星』を読んだ後に感じた。韻を踏んだり、或いはラップというセリフの在り方で、コトバを《ずらし》、さらにそのコトバを発する主体を《ずらし》、その《ずれ》から、星の光を絞り出した。ここまで徹底して《ずらす》手法は、新しいと呼んでいい。肉声を含めた肉体を使う舞台でしかできないコトバの扱い方である。この《ずらす》手法は数学の問題を美しく解いて見せた時の方法に似ている。答えは、《寂しさ》であり、驚きはない。だが解き方が美しいのである。今この時点で、この手法はひとつの才能である。(野田秀樹)

・それもまたあらかじめ〈容認〉されている。ここから突破するにはもうひとつなにかが必要だ。おそらく、この数年の潮流から、また異なるテイストを携え、ある切断を本作品がもっとも顕著な姿で表現していた。だが、ヒップホップの方法論を持ちこみ、□□□(クチロロ)というブレイクビーツ・ユニットの音楽も果敢にとりこんだ「建設的」なアプローチは、いわゆる現代口語演劇を再構築する。反復しつつ、微妙な差異によって紡がれる〈世界〉の小さな震えと、その巨大な〈世界〉のなかで、距離を縮小し新しいテレビを買うことを希望する矮小でどうでもいいような細かいディテールと欲望が平行して動くとき、読む者は、そこに自身の存在をあらためて見る。(宮沢章夫)
 

 
『五人の執事』 (上演台本) :野木萌葱

・よく書けていると思わされるところと、あの俳優チームがこれを演じるのかという理解で腑に落ちる面もあった(坂手洋二)

・今注目の「官僚的性格」を執拗に展開させる面白さがあった。(永井愛)

・野木氏の『五人の執事』は、どうなっていくのだろう? という興味を持って読めた。空間を感じることのできる本だった。(野田秀樹)
 

 
『その夜明け、嘘。』 (上演台本)  :福原充則

・福原充則『その夜明け、嘘。』は、「環七」というリアルをどう定着させるかが鍵であり興味深い。(坂手洋二)

・『その夜明け、嘘。』(福原充則)の入り組んだ構成は、同時進行する世界のダイナミズムに迫る可能性があった。(永井愛)

・福原氏の『その夜明け、嘘。』も、これもまたセリフが上手い。何気ないのに面白い。何度も笑った。(野田秀樹)
 

 
『見えざるモノの生き残り』 (上演台本) :前川知大

・前川知大さんの『見えざるモノの生き残り』は、現代の座敷童子という設定は抜群に面白い(鴻上尚史)

・前川知大『見えざるモノの生き残り』 のように「アイデア」で勝負する作品に私は点が甘い(坂手洋二)
 

 
『あの人の世界』 (上演台本) :松井周

・開き直ったようにある種の「へんてこりん」の「羅列」をしている(坂手洋二)

・彼の面白さは、《無関係なもの》に無理矢理《関係》を持たせようとする我々人間の病気を利用したような台本にある。(野田秀樹)

・『あの人の世界』をもっとも強く推そうと考えていた。それというのも、この得体のしれない世界の造形と、組み立てられた〈物語る構造〉から出現する空気が圧倒的に強い力を持って読む者に迫るのを感じたからだ。「なにくわぬ顔の変質者という特権性」そうした特権性を持った作家に私は憧れる。「踊りが好きでスケベな若者1」と「2」のような登場人物をごく自然に登場させるような書き方が自分ではうまく書けないからだ。(宮沢章夫)
 


[各作品のマイナス評価]

 
『セクシードライバー』 (上演台本) :江本純子

・この会話に演劇を支える力はないのだと知るべきである。(岩松了)

・江本純子さんの『セクシードライバー』は、演劇的な構造に弱く、登場人物の川口さんが立体的にからむとか、女の携帯の写真のエピソードが早くに展開されていれば、もっと面白くなったと思います。(鴻上尚史)

・後半、話をまとめる姿勢になりすぎていて、しかも演劇的にではなくネタとして終わらせている感じがあって、もったいないと思った。(坂手洋二)

・戯曲自体がどこまでもタクシーで平面移動するだけのような構造のまま、安っぽいオチにたどり着いてしまったのは残念だ。(永井愛)

・芝居のサブストーリーだけで芝居を作っちゃったという風に見えた。(野田秀樹)
 

 
『ヘアカットさん』 (上演台本) :神里雄大

・世界観を提示する途中で終わってしまった気がする。(坂手洋二)

・ベタな台詞に複雑な構成という組み合わせに戸惑った。この構成でなければ描けない何かがあったことをもっと証明してほしかった。(永井愛)

・残念ながら、これがバイクで死んだ青年やその恋人の話とは何ら絡まない。結局ただの安いセンチメンタルなドラマに終わっている。(野田秀樹)

・戯曲の決まりごとを覆そうと意図しようとすること、演劇という括りそのものを異化し、ふざけた態度を貫こうするのは魅力的なふるまいだ。けれど、それらはすべてあらかじめ〈演劇〉によって〈容認〉されてしまうことを彼らは知っている。こうした種類の戯曲、あるいは演劇という制度からずれてゆこうとするスタイルはある時期から困難になった。演劇だけではない。現代のあらゆる種類の表現領域で発生した事態だ。すべてはたやすく〈容認〉されるのである。(宮沢章夫)
 

 
『わが星』 (上演台本) :柴幸男

・柴幸男さんの『わが星』は、僕にはどうも、ソーントン・ワイルダーの『わが町』の感動をかなりの部分、借りているのではないかと感じて、乗り切れませんでした。『わが星』の感動は、『わが町』の感動ではないのかと僕はずっと思っていました。(鴻上尚史)

・「だからなんだ?」と思うことも多々あるし、手垢にまみれたノスタルジア史観だとも思う。(坂手洋二)

・人物の会話は平板で物足りない。これが意識的なことなのか、このような描き方しかできないのかという疑問は最後まで私を迷わせた。(永井愛)

・答えは、《寂しさ》であり、驚きはない。(野田秀樹)

・世界を、人類を肯定する前向きなメッセージはへたをすれば陳腐なものになっただろう。(宮沢章夫)
 

 
『五人の執事』 (上演台本) :野木萌葱

・ならば執事Kが正気を取り戻す時間こそがドラマだろう。結局、どこに問題が潜んでいたのかが探れないまま、五人の出入りに終始した。(岩松了)

・外と流してしまっているのではないかと思われる部分のムラがあって損をしている。俳優チームがこれを演じるのかという理解で腑に落ちる面もあったが、逆にそこからもっとはみ出してもいいのではないかとも思ってしまった。(坂手洋二)

・オシャレな包装を解いてみたら、中には豆一つといった味気なさが残ってしまったのも事実で、「年間正気を失っていた」この屋敷の主人が、なぜ執事という立場に分裂してしまったのかについては、種明かしというよりも、腑に落ちる何かが仕組まれているべきだったと思う。(永井愛)

・途中で、多重人格にオチをつけるのだと読めた時から、一気に興味が薄れた。芝居というのは、オチをつけるために、書かれるべきものではない。後半は、一人の多重人格者である主人と一人の執事の物語におちていくのだが、それが分かったからといって、何の驚きもない。数学として台本を構成することは悪くない。だが、これは悪い解答例だ。解答はあっているが解き方が美しくない。私たちが見たいのは、答え(=オチ)ではなくて、解き方(=芝居)である。(野田秀樹)
 

 
『その夜明け、嘘。』 (上演台本)  :福原充則

・創作者を登場人物にすることで「これはフィクションの部分です」という手法が使えるとき、「なんでもあり」になってしまうことを警戒するところから始めるべきだったのではないかと思う。(坂手洋二)

・各人のエピソードが、あまりにもたわいなかった(永井愛)

・スランプの漫画家の世界を描いた作品そのものが漫画になってしまったのは、テレビの中でテレビを見せられている(この比喩でいいのか?)ようなつまらなさを感じた。仕掛けがない。(野田秀樹)
 

 
『見えざるモノの生き残り』 (上演台本) :前川知大

・エピソードが並列的で深まらなかったことが残念です。一つの家庭、一人の座敷童子に焦点をあて、そこからぐいぐいと深めていけば、とても面白いものになったと思います。(鴻上尚史)

・なぜ最終的に、せっかく示した世界観とはさほど関係しない「ストーリー」の決着によって終わらせようとするのかがわからない。アイデアを真に優れたものにするには、それに見合った新たな方法論が導き出されなければ。(坂手洋二)

・物語るだけで精一杯という罠に落ち込んでしまったのではないだろうか。(永井愛)

・作家が人間の「死」と真剣に向き合わなければならない理由はない。とことん逆の手もある。だが、ここで描かれているナナフシの死は芝居を終わらせるために用意された、ただのオチだ。「彼が強姦に及ぼうとした時に、座敷童子が女性を守ろうとして、プロレスの技を使って彼を殺した」ということになる。「死」に真剣でないばかりでなく「創作」というものに真摯でない。こんなオチのような結末は要らない。(野田秀樹)

 

 
『あの人の世界』 (上演台本) :松井周

・『あの人の世界』(松井周)は構造に無理があり、人物が平面的で、その分を作者の感情で押し切ろうとしている。その感情と作品の近さが風通しを悪くしている。上からの小便を下で雨だというシーンに、その意味を変質させる力がないのがその例。(岩松了)

・構造的なようでいて徹底していないために、ぼんやりとした印象しか伝わってこない。(坂手洋二)

・難解というより杜撰に感じた。この作者にしては、台詞から喚起されるイメージが少ない。視覚的な要素に頼り過ぎたせいなのか。(永井愛)

・松井氏の『あの人の世界』は、構造を隠そうとしすぎて、複雑になり失敗している。私にはただ「動物実験に抗議した若い女性の自殺っぽいもの」の話に見えてしまった。この解釈があっていたらつまらない話だし、間違っていたとしても、そうにしか見せなかったこの構造が破綻していると言える。(野田秀樹)

・こうした種類の戯曲、あるいは演劇という制度からずれてゆこうとするスタイルはある時期から困難になった。それは魅力的になるはずだったが、それもまたあらかじめ〈容認〉されている。ここから突破するにはもうひとつなにかが必要だ。(宮沢章夫)
 

 
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