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2010年 10月 23日(土曜日) 09:25 |
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松田正隆[マレビトの会] × 岸井大輔[PLAYWORKS] × 羽鳥嘉郎[けのび]
まじめに現代演劇を志向する、澄井葵[青年団演出部/,5(てんご)]や羽鳥嘉郎[けのび]の活動が「閉じている」「文脈的」などと評される状況へのひとつのアプローチとして、PULLへ持ち込まれた連続鼎談企画。
第三弾が先になりますが、今回は、大阪應典院ロビーで行われたトークイベントの記録を構成しました。演劇を軸に横断的な活動をみせる三者の鼎談は、まさしく「現代演劇の前提」をさぐるものでした。今後の模索の足がかりとしても、ぜひご一読ください。
難解だといわれる「けのび」ですが、今回の「新しい宿に寄せて」で新境地を拓いてるようです。 http://sentival.blog43.fc2.com/blog-entry-93.html 私は松田正隆、岸井大輔両氏のおもしろさを知り、二人のガイドにもなる対談だと思いました。(カトリヒデトシ)
<プロフィール>
松田正隆(まつだ・まさたか) 劇作家、演出家、マレビトの会代表。1962年長崎県に生まれる。1990-97年まで劇団「時空劇場」代表を務め、劇作・演出を手がける。 1994年『坂の上の家』で第一回OMS戯曲賞大賞受賞。1996年『海と日傘』で岸田國士戯曲賞受賞。1997年《月の岬》で読売演劇大賞作品賞受賞。 1998年『夏の砂の上』で読売文学賞受賞。2000年には京都府文化奨励賞を受賞。劇団解散後、フリーの劇作家として、青年団、文学座、演劇集団円などに作品を書き下ろしている。舞台戯曲の他、黒木和雄監督作品《美しい夏キリシマ》にて映画脚本を手がけ、『紙屋悦子の青春』は原作として映画化されている。2003年8月より「マレビトの会」を結成し、劇作及び演出活動を開始。マレビトの会の主な作品に《島式振動器官》《クリプトグラフ》《声紋都市―父への手紙》《PARK CITY》《都市日記 maizuru》などがある。現在、京都造形芸術大学 舞台芸術学科客員教授。 http://www.marebito.org
岸井大輔(きしい・だいすけ) 劇作家、PLAYWORKS主宰、POTALIVE元主宰。1970年生まれ。演劇の素材を人間の集団ととらえ、他ジャンルで追究された創作方法による形式化が、演劇においても可能かを問う作品群を制作発表している。近年では、現実の人間集団を創造的にする活動そのものを演劇として提示する作品を発表。その制作環境は美術館・劇場の内外を問わない。また、参加者の表現能力に関わらず演劇作品を生み出す技術に定評がある。2008年より PLAYWORKS主宰。代表作に《P》《potalive》《ロビー》《文》《世界の演出》《準備室》、「東京アートポイント計画」にて《東京の条件》。 http://plaza.rakuten.co.jp/kishii
羽鳥嘉郎(はとり・よしろう)
演出家、けのび。1989年生まれ。「いかにしてともに生きるか」をテーマに、法律や忘却などの手立てでは困難を感じる時に導入しうるメカニクスを引き出す。あらゆる生活局面をも劇ととらえ、いつでも誰でもが実装可能なフォームをパフォーマンスワークを通して制作する。それらのフォームは、心がけ・理念の形態をしばしばとる。フォームにかなうモデルが走ることで成立する時間、人間の能力の確認としての時間、の上演もおこない高い評価を得る。今年度は「フォーム追求によって維持・展開される集合の形式」の可視化に尽力。近作《等々力》《新しい宿に寄せて》《よさ》。http://kenobi.org
<1. 演劇の亡霊性>
――岸井 僕は、ケージとかが音楽は音だと言ったことによって、音楽のアイデアが広がったみたいに、演劇を「複数の人間」って定義して、やれることを広げて考えてきました。ところで演劇を指す言葉っていくつかあります。たとえば「舞台」や「芝居」という単語は、ほぼ演劇と同義に使われます。ですが、それぞれの言葉が表わす内容は異なる。「舞台」は、文字通りとれば舞う場所のことですね。「芝居」は、芝に居るってことで、芝というのは昔、外で演劇やってた時の客席です。「芝居」は客席を指している。で、「演劇」は「劇を演ずる」って熟語。「舞台」と「芝居」は場所で、「演劇」は行為ですね。英語でも、それぞれ該当する言葉があって、「芝居」は客席を使って演劇を定義してる訳ですけど、英語のtheaterの語源は観る場所だから芝居と同義とみなせます。「舞台」はstageですね。「演劇」って言葉は江戸時代半ばくらいから使われ出したらしいんですけど、ほぼplay dramaの訳語だと思うんです。dramaというのは、何かの行為、葛藤を指していて、playは遊び。そう整理して、僕は芝居や舞台をやりたいんじゃなくて、演劇をしたいんだな、と考えた。だから、客席で見るだけの、芝居や舞台をするお客さんに対して、「見んな」、「遊ぼうよ」って思ってきたんですね。で、お客さんと一緒に散歩をすることを、5年間くらいやってました[注1]。散歩中は見るより一緒に遊ぶ状態になります。お客さんが来ると「今日は何も見れません、一緒に散歩するだけですけどいいですか」と言う。歩き出して10分くらい経つと皆好き勝手に遊び出すようになる訳です。 でも、「散歩」って言ってもまだ見てるだけの人はいるな、と。それで去年は「会議」[注2]をした。会議のルールをつくって戯曲という。来たお客さんは自分の解決したい問題を出して、解決するために戯曲=ルールに従って解決案を出して、会議の後にそれをやる。行為の中に、演劇的な葛藤を演ずることが入るように仕組んでいる「会議」をつくった。「これで見る人いなくなった、やった」って思ったんです。ところが、劇場で客席にいる時に、ただ見てるだけになりたい時もあるし、舞台と遊びたい時もあるという葛藤が常に心の中にあったことを思い出した。むしろ、「私見てるだけでもいいですか」って葛藤を持ちながら一緒に遊んでるとか、「私は本当は遊びたいんだけど」って葛藤を持ちながら見てるだけとかも演劇的に大事な葛藤だったんじゃないかということに気づいた。それで、去年の12月くらいから大きな壁にぶつかっていて、ずーっと排除してきたことが実は必要だったんじゃないか、見る人がないと演劇は出来ないのかもしれない、と思うようになった。というところで、羽鳥君に誘われて、《都市日記 shinjuku》[注3]を拝見したんですよ。僕は10日間であんな客観的なものはつくれないなと思って。僕だったらあの子たちと遊ぶことを考えちゃうと思うけど、こんなに人間を、見る―見られるとしか言えない状態に出来るってすごいなって思いました。
――松田 この間発表した《HIROSHIMA-HAPCHON》[注4]がどういう作品だったかというと、俳優が―出演者って僕は言ってたんだけれども―がいて、広島とかハプチョンという町に行った出来事を語るんですけど、語りながら、語りの内容にあることを演じたり、つまり語りと演じることを行ったり来たりしながらやるんです。客席がなくて、色んなところに出演者が点在してて、観客が見ていく。どこから見ていてもいい、どこから入ってきても、帰ってもいいようにはしてたのですが、観客が近くに観にいくんだけれども、出演者の方が、これを見返していいんですかと言ったんですよ。やっぱり、見たいと、近くに来たら。でもそれには違和感があって、見たら駄目なんじゃないかと。見返すと共犯になるというか、現在時は担保されるから、ある意味ライブ感は出るんだけれども、同時性がわかりやすくなる。発話の問題もそうだと思うんです。こうやってしゃべってると、岸井さんがうんうんって答えるのは「話」ですよね。それで、この先どうなるかわからない。「語る」と「話す」は、非常に時制の問題があると思うんですよね。語りはやっぱり過去のこと語るとか、自分の中に、過去って本当はないんでしょうけど、内在化したものの記憶を思い出して語る。ここに誰もいないまんまで、没入して自分の中に語り始めると、その人がそこにいながら、もうここから消えるようなことになる。でも身体だけはある状態。それを語りというのかもしれないですけれども。で、その両方がうまく噛み合えば、演劇って面白いだろうなあと思ってます。ただ、常に、現在時を担保させてその空間を同化していくことに少し疑念はあって、そこにいながらいない人、まあ幽霊を見るようなものだと思うんですけど、亡霊性があるのは、演劇の面白さだと思うんですよね。バスの中でも電車の中でも、違うことをずっと喋ってる、ここに居ながら居ないようにしてる人っていますよね。そういう人の存在感みたいなものは面白いと思います。それをなんか観客が見るっていう状況を、ちょっと起こしたいっていうのはありましたね。
――岸井 松田さんが語られた亡霊性は、人間がそこに居るのに、さも異世界に居るみたいな話でしたけど、僕のイメージする演劇の亡霊性は逆です。ただの柱でも、こいつには魂があるという設定で見てると、生きているような気がだんだんとしてくるときに、亡霊性を感じる。僕は、演劇のスタートが妹相手にやってた人形劇で、ティッシュの箱とかを使って芝居をしていた。無機物が生物に見えたり、無機物に戻ったりすることが楽しかった。でも生身の人間であってもそういう瞬間はあると思うんですよね。たとえば宮城聰[注5]さんは、そういうことをやりたいんじゃないかと思って。「人間なのに亡霊」もあるけど、「無生物なのに、あれ人間」みたいなのもすごく演劇っぽい。
――羽鳥 ここに居るのに居ないと言えば、例えばコンビニの店員でもそうです。彼は「ここに私が居ないってことにしてください」ということをする。だからって、コンビニにお客連れてって見ても面白くないじゃないですか。単純に言っちゃうと、個別としてのその人(トークン)と、普遍的な生き物や人間(タイプ)だとか、個別としての柱と、なんかもっとタイプの柱が入れ替わったり揺らいでいるのが見える状態が面白いって話だったのかなと聞いていて思いました。 個別のところと、普遍的なものが揺れ動いてるのは、[けのび]もそうだと思っています。松田さん、岸井さんに以前観て頂いた《等々力》[注6]もそうですが、個別の、人としての動きも起きるけれども、やってることは、ただ心がけだけ。能力を確認しているってことをやっているつもりなんですよ。能力は普遍的なもので、確認する場面は個別ですね。つまり私たちには、話しあったりしようとする能力みたいなものがあると。「確認」は岸井さんも勿論してるし、松田さんもしてると思うんですよ。私たちは引いて「語る」ことが出来るとか、そういう能力を見せてくれているし、俺たち、コンビニの店員とも、電車の中でも、人と喋って問題解決する能力あるし、わかりあえる、はず、みたいな、そういう確認だと思うんですよ―僕の読み方で言えばですけど。だけど僕には、(岸井さんのその方法を使えば、誰とでもわかり合えるかもしれない、喋れるかもって思うけど、)そういう個別の出会いとか奇跡とか、いつもいつも、それである必要はない。その能力がある、そのことが出来るっていうことを見せることで「あ、能力あるね」って思うんじゃなくて、能力だけを見せる、能力だけを確認したい。
――岸井 演出というのがありうるとしたら可能性の領域しかないのかもしれない。「能力だけを確認したい」って、英語で言うperformanceですね。「性能」。「この車のperformanceは〜」って、車を走らせるんじゃなくて、エンジンだけを動かして、「うん、200km出る」みたいなことを連想した。日常的には、コンビニの店員とは、三人称でコミュニケーションしてて、個人として、コンビニの店員と触れてない。ところが、場合によってはコンビニの店員と、すごく個人的な悩みについて話し合うことも出来る。それがまたコンビニの店員に戻っていることなどを想像しても同じ、亡霊性を感じます。すごく演劇的だと思うんです。「ギャップ」とか「移動」の亡霊ですね。三人称と二人称のゆらぎを感じる快感が、僕は強い。落語だと最初に観客に完全に話しかけちゃうじゃないですか。「お母さん今日はどこから来たの」とか言って、そこから話に入ったり。
――松田 二人称と三人称の他に、ビオスとゾーエーという例があると思うんですよ。ギリシャ人ってすごいなと思うのは、どちらも生命を意味する用語だけれど、生物としての一個のまとまり、統一されたものとしてのビオスに対して、そうではなくて存在としての「生命」みたいなゾーエーもある。人間じゃないかもしれないけど、人間のように見える。アウシュビッツの中で、ゾーエーとしては存在しているとかって言い方しますよね。むき出しの生というか、今も東北ではそういうことが起こっている訳で。いわゆる群れとしての生、ゾーエーの部分も見ていく必要があるのかな。そういうゾーエー感みたいなものは、どういう時にでてくるんだろうか。二人称から一人称のそのはざまみたいなところに、多分それが隠れているのかもしれない。
<2. 集中と集団>
――松田 劇場にいると、結構ブラックボックスだし、そこに集中するようにつくりますよね。最近、僕は疑問に思ってるんだけども、見る側がひとつのものに集中する時は、このコップをそのまま見せるというよりも、勝手に他のものを背景に追いやっているんじゃないか。映画は特に、縮減というか、こっちを見るためにこっちを抽出するという手法よりも、あるものを見るために他のものを背景として存在させてることがあるよね。つまり、演劇をつくる人は、黒い中にひとり演技者を置くとか、非常にシャープに、スポットを当てるほうで考えてしまう。そうでなくて、ポリフォニックじゃないけど、もっといっぱい同時に色んなものを見せながら、他を背景に行かせるようなことで、演劇が成立しないかなあと。他を排除するためには、一個にしないほうがいい。他が背景に引き下がることで、一個が際立つ。それは見方の問題なのかもしれないけれども。主体的に観客が関わるのであれば、企てる側が、そんなに集中するものを「これを観ろ」っていう風にしなくても、観客をその環境の中に入れる……。
――岸井 「静かな演劇」って、狙いがそこだと僕は思っていたんですね。教会の結婚式で、牧師や神父は大勢の人を黙らせる時に、大きな声を出さない。「皆さん静かにしてください」じゃなくて、小さな声で「本日は、大勢お集まり頂きまして……」とか喋り出すと、端っこのほうからシーンとしてきて黙っちゃう。静かな声を聞こうとするが故に、お客さんが参加させられてしまうわけです。その人はずーっと小さい声で喋ってるから、他のことが起きると埋もれるんだけど、結婚式の司会者に集中しようってことは、声を小さくすることで起きる。
――松田 いずれにせよ効果だね。平田(オリザ)[注7]さんは、非常に集中させるほうだと思う。だから同化型だと思う。
――岸井 背景の中から選びとるというのは、異化的なことを考えてるってことですか、なるほど。
――松田 それをやるために、色々やりましたね、失敗ばっかり。今でも成功しているかわからないけど。皆で一気に喋ったりしてたんです。で、聞き取れない、観客が。当然ですよね。まあだんだんそれが変わってきていますね。映画なら、原節子の顔を見るよりも、ヤカン見ようみたいな感じがある。小津(安二郎)の映画を百回くらい観てるとすれば、この表情がどうということはもういい訳じゃないですか別に。それよりも、この辺でなんか傷がある、とか。
――岸井 僕の、散歩にすると皆喋るっていうのも、効果ですよね。散歩という効果を使ってお客さんに喋らせてる。異化的にお客さんを喋らそうと思ったら、「演劇って必ずしも黙ってるもんじゃないよね」ってお客さんの頭の働きがあり、それで自発性で喋るってことになると思うんですけど、僕はその分類で言ったら同化の線で、お客さんと歩いてたと思います。
――松田 今、問題になっているのは観客の参加度で、僕の問題はどちらかというと、企てる人と企てを見に来る人の関係。「現代演劇の前提」ということでは、僕が前提としてやっぱり崩れなかったのは、観客に向かって語りかけるとか企てる側と、企てられる側、その線引きだけは絶対あるんじゃないかなと。「ちょっと、いらっしゃいよ」とこっちは言う訳じゃないですか。「おいでよ」って言われたら、集まる時に、やっぱり観客に、観客性がインストールされてる。企てる人は、あんまり見る人に影響を与えない、客いじりをしないのが、僕の性には合ってて、見られることによって成立するということが行われるといいなあと思ってるんですけど。
――岸井 参加度って言葉は、単純化しすぎな気がするな。黙って座ってる人も参加度高いと思うんですよ。子どもがこの会場にいたら、ワーッて騒いでるじゃないですか。参加度低いってそういうことですよね。黙って座ってる人は、相当参加度高い。
――松田 でも、そのことを組織すること、作り出すことがもはや演劇になってる。集わせること、その企てとどう付き合っていくか。劇作家は、なんか才能ある作家とか一人の人間が物語を作るって話じゃなくて、もっと、作り手としての技術、人を集める、場を遊ぶみたいなのに変わってるんだよね。
――岸井 作家性にはこだわるべきだと僕は思ってきました。「お客さんも出てる人も全員が作家であるべきだ」って思ってる。だけどむしろ最近は、「全員作家じゃない」みたいのでうまくまわす方法もあるんだろうなーと。
――松田 羽鳥君がこのあいだ面白いこと言ってたんだけど、電車の中で急に「僕、宗教をつくりたいと思ってて」と聞かされて、彼の新作の話で、「そうか」と思って。僕の新作でも、あるフィクションの話に付き合っていくことは、つまり、作品をパッケージにして再演可能なものにしなくていいんじゃないか、もう1回でいいと考えている。1か月とか2か月ずっとやってて、たまに観客が見て、ああ、今週こんな風になってたんだというような、連ドラみたいなもの。だから、TSUTAYAとかああいうパッケージになっているものじゃなくって、ものすごい膨大なものをずっと流し続ける、そういうことに対して、いかに人に、場に、集団に付き合っていくか。それを「宗教」と言うと、僕は抵抗はあったんだけども……。
――羽鳥 だから断られたんです。
――岸井 誘ったの!?入信しませんかって?
――羽鳥 一緒につくりませんか?って。
――松田 断ってはいない。早く結論を出さなくてもね。
――羽鳥 いま作ってるので……。
――松田 でも早い時から入信してたほうが、レベルが高そうですね。途中から入ると……
――羽鳥 宗教団体をつくるって話じゃなくて、教条を作る。信じる必要はなくて、信じる対象を作ることをやる。最初からやってたほうが、信じたいものについて話す時間は長い。
――松田 劇団で創立メンバーとかいるじゃない。一番嫌いなんですよ。要するに経験主義。今回の震災も、「神戸の震災を知ってますから」って、よくそういう風に話す人いますよね(まあ本当に技術で知ってる人はね、どんどん行ってほしいんだけど)。震災に先輩もクソもないのに、神戸の経験がみたいな。
――岸井 先輩ヅラってことですね。
――松田 経験をシャフトにしちゃうと、何事もよくないなあと。演劇もそうだけど。
――岸井 僕は、集団を自然ととらえているんだと思う。「演劇は人間の集団だ」という定義から、演劇があるから人が集まるってベクトルと、人が集まるから演劇ができるって考えを派生させられる。通常の演劇宣伝は、劇をやって人を集める。もっと大きく言うと、阪急電鉄に人を住ますために宝塚劇場が作られた。演劇で阪急というブランドを作って、町を作るみたいな、そういう流れもひとつあると思う。でも、江戸があるから歌舞伎ができたとか、バリ島あるからバリダンスができたとか、人の集まり方が演劇を生み出したみたいなベクトルもあるし、そちらの矢印のほうが本質に感じられると30歳のころ思った。作られた集団でなく自然な集団があるという前提で、それをなんとかしたいってこと。 町に入るようになったのは、外に出たかったからじゃなくて、そういう矢印をつかまえる方法を考えたから。人が集まっているんだけど、自己表現がなくて困ってる集団はいっぱいあるんじゃないか。毎年行なう文化祭や、宗教団体がやる儀式は、集団の自己表現なわけじゃないですか。そこに行って、集団に合わせて何か一緒にやりましょう、みたいな作品ができないかなって思ってるうちに、散歩するようになった。だから集めて来るみたいなものより「集まってる」が気になるんだよね。
――羽鳥 「集まってる」とか「集まれる」。
――岸井 集まれる、だと可能性になって羽鳥君のフレームですよね。ココルーム[注8]とかの場が気になるのも、「集まってる」が気になるから。集まってると劇作家の仕事があると僕は感じる。
――松田 抽象的な空間に人々を集めるために企てをするんじゃなくて、もはや、すでにある「場所」はそこに人を集めようとする要請を発してるんじゃないかと。そこに素直に反応して、人を集める手練手管を考えよう、ということですね。
――岸井 例えば、俳優を真っ白なものとして演技があると考える演劇作家もいる。僕は、その人がここまであるということの上に、でも表現ができないでいるから一緒に仕事をしようということだろう、と思う。別の例でいうと、「ウチの部長は最悪だ」みたいに愚痴をこぼしてるOLがいる。そのときに部長の人間性を攻撃してる時もあるけど、部長がちゃんと部長をやれてないということを問題にしてる場合、それは、部長役をやれていないという演技の問題なんじゃないかと思う。ということは、必要なのは演出家ではないかと。この場合、部長は俳優な訳ですから、適切な演出をすると、部長がよくなってOLの愚痴が減る。人間の集団としての会社が演劇だとしたら、それが演出家の手によってよい劇になったと。このような演劇概念の拡張はできるでしょう。劇作家の仕事だと僕が感じていたのと同じことを、町とか、コミュニティに適用してた。だから、演技できない俳優みたいに、あるコミュニティをとって、こうすれば演技になるよねってきっかけを与えるのが仕事だと捉えた。
――松田 場を読む。読み間違えるとかね。
――岸井 そうですね。
――松田 いわゆる人間の言語を話してるわけじゃないからね。その環境、場所の語りかけてる言葉をどうするか。
――岸井 僕は、人間同士でも対話よりも、おしゃべりの方が、コミュニケーションはちゃんとされてるんじゃないかという気がします。論理的な対話のレベルよりも、おしゃべり、チャットのレベルの方が、例えば、感情の交換とか、恋愛が深まったりする。
――松田 チャットっていうところには、結論があるようなことじゃなくて、一個一個の言葉遊びのダジャレでもいいから、なにか身体感覚があるような気がします。そこで出会いが出来上がるというのは面白い言い方だなと思いますね。身体感覚的なことを言えば、チャットは愛撫に似てるっていうか。愛撫って、大事ですよね。
――岸井 そうですよね。演劇で、愛撫みたいな感覚。
――松田 愛撫って、主客未分になるというか、向こうが触ってるのか触られてるのかを、やり合う訳じゃないですか。私が私でなくなってあなたになったり、あなたが私になったりするってことの喜びがある。戯曲を書いてるときは、愛撫的です。でも今の演劇では、戯曲が先にあるっていうのがつまらないから、もうちょっと演出のレベルで……。
――岸井 さっきの技術の話で、単に技術と言ってしまうと、今の愛撫みたいな部分が捨象されちゃう。作家性だと担保される。技術の話に還元しても愛撫なしになるんならそれは技術じゃない筈なのに。だから、セットが必要だと思うんですよ、例えば、技術と愛撫だったら、わかるなという感じが今しました。
――松田 そう、セットで考えたらいい。
[2011年4月1 日 大阪應典院ロビー] 構成:羽鳥嘉郎、協力:印牧雅子
[注1]岸井大輔《potalive》(2000−08) 「散歩をしながら楽しむライブ」を意味し、軽いサイクリングや散歩を表すポタに、演奏・演技・ダンスなどを表すライブを組み合わせて作った造語。別称「お散歩演劇」。劇作家・岸井大輔と舞踊家・木室陽一による共同主宰カンパニーとして創始され、劇場の外で純粋に演劇が成り立つスタイルを示す。2006年以後、創作ワークショップを経た多くの受講生がpotalive作品を発表し続けている。
[注2]岸井大輔《会/議/体》(2010) 岸井大輔が集団創作の方法論に従ってデザインした会議法。たまたま集った5人でそれぞれが持ち寄った問題について会議し、その場で解決案の実行まで進める。場が生成するプロセスを精査し、運営を作品として提示する試みとしての参加型演劇《東京の条件2010》を象徴するプロジェクト。
[注3]マレビトの会+早稲田大学演劇博物館《都市日記 shinjuku》(2011) マレビトの会は、京都府舞鶴市赤れんが倉庫を舞台に、舞鶴の町を取材し、集めた映像・テキスト・音声をつかった演劇ワークショップ公演《都市日記 maizuru》(2009)を上演。また早稲田大学演劇博物館にて、演出・松田正隆がイスラエルに三か月間滞在して出会った現地のアーティストに取材し、創作した映像インスタレーション作品《都市日記 Tel Aviv-Ramallah-Jerusalem》(2010)を発表。《都市日記 shinjuku》では、一般公募で集まった中高生と「取材・報告」というマレビトの会ならではの手法を共有しながら、新しい演劇創作を試みた(羽鳥嘉郎は、サポートスタッフとして参加)。
[注4]マレビトの会《HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会》(2010) 2010年10-11月、京都芸術センター講堂(KYOTO EXPERIMENT 2010)、自由学園明日館講堂(フェスティバル/トーキョー2010)にて初演。都市に埋もれた記憶の声を掘り起こす「ヒロシマ―ナガサキ」シリーズ最新作として、広島での被爆者が数多く住み「もう一つのヒロシマ」と呼ばれる朝鮮半島の町ハプチョンへと目を向けた。広島とハプチョンという、まるで二重写しになったような都市像を、展覧会形式の上演空間に引き入れた。「ヒロシマ―ナガサキ」シリーズには、《声紋都市―父への手紙》《PARK CITY》(以上、2009)がある。
[注5]宮城聰(みやぎ・さとし) 演出家。1959年東京生まれ。1990年にク・ナウカ シアターカンパニーを結成、一つの役を〈語る〉俳優と〈動く〉俳優の“二人一役”で演じる独自の方法をもちいて国内外で公演を行なう。代表作に《サロメ》《天守物語》《熱帯樹》《王女メデイア》など。2007年より静岡県舞台芸術センター(SPAC)芸術総監督。
[注6]けのび《等々力》(2010) 「ありうべきものとは何か」というただ一行の戯曲から、日常のどんな状況でも使える演出/心がけを引き出し、それを文字通り行なうプレゼンテーションを上演する。観客も手渡されたその演出をおこなってもよいし、そうしなくてもよい。京都・大阪・秋葉原・横浜などにて上演を伴う発表を重ね、レパートリー作品として巡演されている。
[注7]平田オリザ(ひらた・おりざ) 演出家。1962年生まれ。1982年に劇団「青年団」を結成。「静かな演劇」の旗手として注目され、その演劇論は90年代以降の日本演劇に多大な影響を与える。また多角的な演劇教育活動を展開。内閣官房参与、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授、四国学院大学客員教授・学長特別補佐などを務める。
[注8]ココルーム 詩人・上田假奈代が代表を務めるNPO法人「こえとことばとこころの部屋」運営によるインフォショップ・カフェ。大阪・西成の商店街「動物園前一番街」に所在。
<今後の予定> ・《現代演劇の前提(をさぐる)-2》筒井潤[dracom]×伊藤拓[France_pan]×羽鳥嘉郎[けのび]の公開は6月以降を予定しています。
・《現代演劇の前提(をさぐる)-4》澄井葵[青年団演出部/,5]×印牧雅子[編集者]×羽鳥嘉郎[けのび]の公開は6月以降を予定しています。
・松田正隆 《マレビト・ライブ vol.2》 6/4 14:00-18:00 @アパートの一室・ミック(京都市左京区田中飛鳥井町44)・京都造形芸術大学 青窓館5階 《マレビト・スタディーズ vol.1「女優論」》 池内靖子[立命館大学教授]×永井愛[二兎社主宰]×松田正隆 6/27 19:00-21:00 @京都芸術センター ミーティングルーム2
・羽鳥嘉郎 けのび《新しい宿に寄せて》ワークインプログレス in SENTIVAL!!!2011 4/19, 4/25, 5/9, 5/17, 5/23, 6/7, 6/21 20:00- @板橋 Atelier SENTIO
・澄井葵×羽鳥嘉郎 ワークショップ《よく演出しあう 第一回》in Whenever Wherever Festival 2011 7/9 16:00-19:00 @森下スタジオSスタジオ
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